Weekly Go 豪
負け犬の遠吠え 友の会シドニー支部

 

Wednesday, June 28, 2006

其の36 アメリカの見た独裁者

(この記事は 2006年6月23日付けの週刊ジェンタに掲載したものに加筆したものです)          

いささか旧聞に属するが、4月23日、ワシントン・ポストは、「古い国、新しい脅威」という見出しで、独裁者を名指。「これらの悪い奴らを知っているだろう。他の世界には暴君、独裁者、専制君主がいるものだ。国境を越えると、常にドラマが待っている」という書き出しだ。

私見を一切入れずワシントン・ポスト紙の二つの記事をまとめた。以下は危険人物のリストだ。

 準独裁者、ロシアのウラジミール・プーチン大統領(写真左)。伝統的な独裁者、北朝鮮の金正日総書記(写真左下)

は、自己を神格化して、国民を常時戦争状態に置く。

経済的な怒りと宗教的不満を土台に築き上げられた国、ベネズエラとイラン。

ベネズエラのウゴ・チャベス大統領(3番目の写真) とイランのアフマディネジャド大統領。

ベラルーシをブレジネフ時代に似た政治的テーマ・パークにしたアレクサンドル・ルカシェンコ大統領。

ビルマを第二次世界大戦後のセピア色の極貧国にした将軍たち。

喜劇オペラ政権、天然ガスで潤うトルクメニスタンのサバルムラト・ニャゾフ大統領は、ディズニー風の人間崇拝とスローガンを掲げている。

陰湿さと容赦のない暴力、ジンバブエのムガベ大統領・・前の白人統治者に対する厳しい姿勢は、富を握るための口実とした。

ボリビアの左翼の人民主義の政治家で、グロバリゼーションに反対している少数民族出身のエヴォ・モラレス大統領。自身の給与を半額にカットし、資本主義を人類の敵と呼んだ。

キューバのフィデル・カストロ首相。「倫理的には彼は悪い奴ではない。しかし、ラテンアメリカの左翼潮流の一部であり、アメリカの国益への挑戦となっている」

イラクにおける「民主主義の失敗が、隣国シリアのアサド大統領の立場を強くした。ロシアもシリアも、西欧型の自由よりも、まず個人の治安が先に来る」。

人類浄化のダルフール紛争打開のために、スーダンのオマル・ハッサン・バシール大統領を協力させることがいかに難しいことか。

ウズベキスタンのイスラム・カリモフ大統領(一番下の写真)。「治安に名を借りたカリモフの野蛮行為は名うてだ。いくつかの記述によれば、彼は人を生きたまま釜ゆでにしたり、殴打、電気ショック、窒息、強姦、火傷などで拷問をした」。

独裁君主、絶対主義者のネパールのギャネンドラ国王。民主政党との妥協を拒否し、醜い闘争に火を注いだ。

Posted by Picasa赤道ギニアのテオドロ・オビアン・ヌゲマ大統領。1979年にクーデターで政権について、これまで独裁支配に対して、一切の反対を許さなかった。

この20年、ウガンダのゲリラの準軍事グループ「神の抵抗軍」を率いてきた指導者ジョセフ・コニー。「神の抵抗軍」は、神の指導者としてのコニーを受け入れない者の耳や唇を切り落とすと主張する。コニーの儀式には、キリスト教、イスラム教、魔術が入り交じる。

エチオピアのメレス・ゼナウィ首相。2005年の国政選挙で民衆デモに発砲し、著名な政敵を裁判にかけたとして批判されている。

アフリカで最も抑圧的な指導者の一人エリトリアのイサイアス・アフェウェルキ大統領。1993年に、エチオピアから独立以来、国政選挙は行われていない。

最後に私見を入れさせてもらう。これらの首脳の顔が独裁者の顔とすると、ブッシュ大統領の顔は、自由・民主主義国家の顔に値するのだろうか。

Saturday, June 24, 2006

其の35 ブルー・サムライの敗北

Posted by Picasa (この記事は、週刊ジェンタ2006年6月16日付けに載せたものに加筆修正したものです)

サッカーW杯観戦で寝不足気味になった。サッカールーズのワールドカップ史上、初ゴールがティム・カーヒル(エバートン/イングランド)から。二つ目もカーヒル。だめ押しがジョン・アロイシ(アラベス/スペイン)。役者が晴れ舞台で活躍した。

だが、試合前日、珍しくヒディンク監督は切れていた。”オーストラリアは汚いゲームをしている。彼らは膝を狙ってくる”と日本の報知新聞が報じた川渕キャプテンの談話に対して怒った。

「私は、全部映像をみた。かなりフェアだ。ゲームでは普通のことだ。あれは書く価値のない記事だ。無責任な行為であり、レフリーに条件をはめる雰囲気を醸しだそうとするものだ。スポーツマンが言う態度ではない」と。

 サッカールーズ・ファンの祈りを代弁した意見がSBSサイトに載っていた。
 『日本国民をドライにしておくには、45分から75分の間に得点をさせないことだ。多くの統計から導き出した一つの結論だ。準々決勝に残った4年前、日本のファンは大阪の道頓堀に飛び込んだ。その1年後、阪神優勝の時も、野球ファンが飛び込んで1人溺死したという。日本チームがベースキャンプを張るボン市長は日本のサポーターに、「ライン川には飛び込まないでおくれ。水質はいいが、流れは早く溺死するから」と呼びかけた。日本ファンにとって、危険時間帯は試合後だ。しかし、サッカールーズにとっての危険時間帯は、セカンド・ハーフの最初の30分間だ。『日本代表チームは、1998年と2002年のW杯2大会の7試合で、6つのゴール。その全てをその時間帯に決めているのだ』

 『ジーコ監督だって計算している。「ブラジルが突破することはほぼ決まりだ。残りの3チームは33%ずつのチャンスだ」と。単純計算すれば、ジーコ監督は、2千万の人口のオーストラリアとくらべれば、(1億2千万の)日本は6倍のスター選手を発掘するチャンスがあるんだと言うかもしれない』

 『日本では、天皇皇后両陛下が初めてジーコ監督や宮本、中田ら4選手を皇居に迎えてサッカー選手を激励した。オーストラリアはジョン・ハワード首相がメルボルンでサッカールーズの壮行昼食会に出席するはずだったが、東ティモールへの部隊派遣という小事が邪魔をした。ティモールはさておき、オーストラリア人は60年前に日本軍が攻めてきたを盾に大きな紛争をワールド・カップにもちこむほど馬鹿ではない。2004年にアジア杯を中国が主催した時、中国人はそれをやってしまった。中国のサポーターは君が代にブーイングし、第二次大戦の日本侵略を非難する横断幕を数珠繋ぎにした。だが、結果は日本が勝利してそれに応えた。ジーコは「すべての経験が日本チームの結束に役立った」と言った』

 『だから、フース・ヒディンク監督へのアドバイスは簡単だ。「ゴールすることにこだわれ! ライン川の水を抜いておけ。戦争の話はするな。決勝トーナメントのためにホテルを予約しろ」だ』

 ヒディンク監督が、キャプテン、ビドゥカが同席する公式記者会見で反論したのは正しい。今回、中国の役割を果たしたのは、残念ながら川渕キャプテンだった。日本の敗因の半分は彼にある。あんなこといわれれば、何と言っても勝ってやるという気持ちにさせる。オーストラリアは、最後の6分からネットを揺りに揺さぶって3ゴール。おまけに、日本の1得点もファウルだったと、エジプト人主審が謝ったという。その審判としての行為はどうかと思うが、ほんとうは、3-0だったのだ。日豪ともゴールにこだわれ。川渕さんよ、犬の遠吠えめいた場外論争はやめろ、言いたい。

Wednesday, June 21, 2006

其の34 国連難民の日

今日20日は、国連が制定した「世界難民の日」です。「最悪の人道危機」といわれたダルフール紛争。 左の写真は、スーダン・チャド国境にある難民キャンプです。

2003年以来、スーダン西部ダルフール地方で、スーダン政府の支援を受けているといわれるアラブ系民兵組織ジャンジャウィードがアフリカ系住民の村々を襲撃し、殺害・略奪・レイプを繰り返しています。数万人規模の人々が殺害され、国連の調査団が「最悪の人道危機」と呼ぶ状況の中で、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は隣国チャドに脱出した21万人以上を12か所の難民キャンプで保護しています。その約8割が女性と子どもたちです。

どうか、ダルフールという地名だけでも、忘れないように頭の隅に入れておいてください。 約600の村々が民兵に襲われ、今なお治安が回復されないダルフール地方では、村を追われた約190万人の国内避難民が身の危険に怯えています。

UNHCRはさらに10万人がチャドに脱出する事態に備えると同時に、ダルフール地方で避難民の安全が確保されるように援助活動を続けています。特に性的虐待を受けた女性たちの保護およびカウンセリングを進めています。

アジア・中東の難民キャンプを取材した私としては、心おだやかではありません。いま、ダルフールで、UNHCRは、難民一人あたりに一日1.5リットルの水の支給を目標としています。あくまで目標です。これは、日本の平均的水洗トイレの約1.5回分の使用量です。いえ、トイレの水を本日節約してほしいと申し上げているのではりません。ここで節約して、スーダンで増えるならそう申し上げますが。そのくらいの水すら、確保が出来ないのです。

 「地球上で最も乾いた土地の一つ」と言われるこの地域での、水の確保は困難です。水は、飲むためだけでなく、衛生状態を保つためにも不可欠です。水が不足すれば、手や食器を洗うことさえ出来ず、伝染病の蔓延につながります。 昼は50度、夜も40度の厳しい自然環境では、テントも不可欠です。 この地域は、6月から9月が雨季。雨季の雨、必ずしも恵の雨ならず、です。雨季の雨がトイレの汚物を流出させ、衛生状態の悪化につながります。 下の写真は、ダルフールで、子どもを赤ちゃんをおんぶする少女の姿です。
 
難民キャンプには、医者が常駐している分けではありません。いつか、ネパールの難民キャンプで撮った、救急車の写真をご紹介します。江戸時代・殿さまが乗る籠を頭に描いてださい。そしてあの箱の部分を、布に置き換えて想像してください。前後を人が担ぎ、袋の中に病人を入れ、一人が日よけの傘をさす・・・それが、私がネパールでみたブータン難民の救急車でした。何キロかの道のりを、町医者まで行くのです。

われわれは、何と幸せな場所に住んでいることでしょうか。 

一日1ドル以下で暮らす「「極貧層」の人口は、アジアでは、2001年現在7億300万人。アフリカでは、3億300万人です。アジアでは減ったとはいて、まだ7億です。アフリカは増えています。

われわれの飽食・肥満は、何のためでしょうか? 

Posted by Picasa国境を越えた人々を「難民」、国内で避難している人を「国内避難民」と国際的に呼んでいます。つまり「疎開」です。こういう人たちが受けている状態を、私たち国際社会は構造的暴力と認定しています

左の写真は、アメリカの空爆でパキスタン領に逃れてきたアフガン難民の子どもたちです。2002年の4月の初旬に、UNHCRの協力を得て、パキスタン西部のクエッタというところで撮った写真です。このかわいいイスラムの女の子たちは、本国にいたら、一生”教育の機会”は無かったかもしれません。アメリカの空爆によって、逃げてきたために、ユニセフによる教育が与えられています。これは、実は、テントの中の教室なのです。机もない、ノートもない・・・ここで、初めて読み書きの「読み」を教わっているのです。この写真を撮った翌日、私は、再度別のところを訪問しました。猛烈な砂嵐の日でした。この話は、またいつかしましょう。

本日、6月20日、アジアにも、中東にも、アフリカにも、そしてここオーストラリアにも難民がいます。さらに隣国東チモールからも、今難民が出ています。

「難民」「国内避難民」に、少しでも思いを馳せてください。私がいま、一番行きたいところ・・スーダン・ダルフールです。

以下のニュースが一番新しいダルフールのニュースです。
June 25, 2006
Sudan suspends all U.N. mission work in Darfur / Sudan suspends UN work in Darfur / Sudan suspends work of UN missions in Darfur

Three stories (updated originally to reflect a newer version of the BBC story; updated further to reflect a newer version of the one from Reuters; updated still further to add the one from SAPA/AP):

Sudan has suspended the work of a U.N. mission in its violent Darfur region after accusing the world body of transporting a rebel leader who opposes a recent peace deal, a Sudanese official said on Sunday.

The United Nations coordinates one of the world's largest aid operations in Darfur and monitors the health, malnutrition and human rights situation in a region the size of France.

"The suspension applies for all of Darfur and this will continue until we get an explanation," said Foreign Ministry spokesman Jamal Ibrahim.

He said the ban was imposed because a U.N. helicopter had moved rebel leader Suleiman Adam Jamous, who rejects a peace deal signed on May 5 without consulting the government in Khartoum.

It excludes two bodies affiliated to the U.N. mission, the World Food Programme and the U.N. children's agency (UNICEF), Ibrahim said.

U.N. spokeswoman Radhia Achouri said the mission had not received any formal communication from the government.
"We have also seen the media reports but we have not received any formal and official confirmation of this from the government of Sudan," she said.
She declined to comment on whether the United Nations had moved rebel leader Jamous in a helicopter.

Wednesday, June 14, 2006

其の33 ヒロシマ原爆とジュノー博士

( この記事は、2005年9月23日号の週刊ジェンタ紙に掲載した記事に修正加筆したものです)

2005年9月13日、ジュネーブで、スイス人医学者マルセル・ジュノー博士の功績を讃えた記念碑(一番下の写真)の除幕式が行われた。
1945年8月6日午前8時15分米軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」(左)が投下した原子爆弾「リトル ボーイ」(2番目の写真の左側の爆弾)が炸裂し、ヒロシマ市はかき消された。


同じ年の8月9日に赤十字国際委員会駐日代表として来日したマルセル・ジュノー博士は、連合軍の捕虜などを調査することにあったのだが、原爆被害のあまりの大きさに、9月8日にヒロシマに入った。爆心地ヒロシマに入った初めての外国人医師である。それも連合国に呼びかけて集めた15トンの医薬品を持って入ったのだった。 被害調査に当たるとともに自らも治療に携わりました。

博士の努力のおかげで薬が各救護所に配置され、何千人もの被爆者の治療に役立てられた。

博士は、4日間、実態をつかむために各病院を訪れた。そこで博士がみた物は、人間の想像を遙かに超えた阿鼻叫喚の姿だった。

ヒロシマに滞在中のジュノー博士に同行した広島出身の婦人科医松永博士は、ジュノー博士が克明にメモを取るのをみた。

残念ながら、その貴重なメモはみつかっていない。「私たちは、広島城の天守閣に登りました。ジュノー博士が、破壊の範囲を知りたかったからです。(略)そこから、市の全貌が見渡せました。雲の切れ間からところどころ日が射していました。市は焼けこげ、灰になっていました。炭化した死体のようでした。私たちは、言葉もなく立ちつくしていました」 松永博士が残した言葉だ。

数分して、ジュノー博士は言った。
「西はどちらだ。爆心地はどこだ。そこに行こう」 

 博士は、焦土と化した爆心地の惨状をつぶさに観察した。瓦礫の中に人骨を発見した。彼は、その骨をやさしくなで始めた、という。まるで、死者を慰めるかのように。

 博士は、医療チームが撤退した後も広島に残り、被爆者救護に全力を尽くした。人間愛に満ちた行動である。

 博士は、エチオピア、スペイン、ベルリン、ポーランド、フランスなど戦争で引き裂かれた国々での類い希な人道活動に全力をあげた。

 一九五九年に国際赤十字委員会副委員長に選任されたあと、一九六一年に心臓発作で亡くなった。それも患者を運んでいる時に、である。最後まで人に尽くしきった人である。

 いま、米国やロシアなど核保有5カ国は計3万発近くの核兵器を保持し続けていると言われる。秋葉広島市長は、今年の平和宣言で、核保有国と北朝鮮などの「核保有願望国」に対し、「(核兵器廃絶を求める)世界の大多数の市民や国の声を無視している」と批判し、今後1年間を、被爆者の願いを受け継ぎ、 核廃絶へ歩む 「継承と目覚め、決意の年」にすると誓った。

Posted by Picasaヒロシマの平和記念公園南の入り口に建てられている博士の記念碑には、ジュノー博士の著作の言葉から、「無数の叫びがあなたの助けを求めている」が刻まれている。(左の写真は、碑の前に立つのジュノー博士の息子さんブノワ・ジュノーさんとご家族)

 「彼は不可能だということを知らなかった。だから彼は実行した」と言うマーク・トーエンの言葉がジュノー博士の行動の原点だったという。 

 そもそも、5カ国に核兵器の所有を誰が承認したのか。人類の悲願である核兵器廃絶は、不可能であるはずがない。

 われわれは、何が何でも「戦争と暴力の20世紀」を乗り越えなくてはならない。(参考:ICRC資料) DR.MARCEL JUNOD(SWISS)1904-1961

Monday, June 12, 2006

其の32 ”終戦の8月15日”に思う

(この記事は、2005年9月12日付け週刊ジェンタに掲載したものを修正加筆したものです) 

 朝食をとりながら、フォックステルをみていた。原爆投下は戦争終結のため肯定されるか? 「イエス」76%、「ノー」24%。何の権威もない、たかが一民間衛星テレビ局の質問に対する豪州国民のリアクションであるが、現実はそうであると思う。

 アメリカが広島に原爆を投下して、日本が決定的に傷つき弱まった時に、ソ連は、日ソ中立条約を破棄して、対日参戦したのである。宣戦布告である。1945年8月8日のことである。1945年8月15日、日本は、ポツダム宣言を受け入れて、降伏をした。 上の写真は、大東亜戦争終結の詔書である。

終戦と言われる1945年8月15日以降に、日本の北方で何が起きたのか?

ソ連は8月16日に、千島列島の武力侵攻を決め、8月18日に進攻を開始した。千島列島最北端の占守島(シュムシュ島)に上陸し始めた時、日本軍は応戦し、激しい攻防戦をみせた。ソ連側資料では、日本側約1018名、ソ連側死傷者1567名が出た(Racing The Enemy263頁)。

これは第2次大戦における最後の大きな日ソの戦いであり、日本側が停戦のために送った白旗を掲げた使者をも、ソ連側は射殺した。8月23日に局地停戦協定を結び、降伏した。アメリカ軍がいないことをアメリカから確認すると、ソ連は8月28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島に上陸。9月3日には歯舞諸島まで、ソ連人のいない島を一気に占領した。 ここに、スターリンの長年の夢が実現した。


9月2日、日本側の重光葵が、横浜沖のミズーリ号艦上で、降伏文書に調印した。 (写真左)

 先頃、ハーバード大学出版局から出版されたハセガワ・ツヨシ教授(博士)は、著書(Racing The Enemy)で、日本が降伏したのは、広島、長崎の原爆投下ではなく、ソ連の対日参戦であることを見事に解き明かし、広島、長崎への原爆投下が戦争終結をもたらしたという正当化は、もはや維持できないとしている。

すなわち、日本政府・軍も、ソ連軍による日本本土占領を絶対に回避すべしと考え、降伏を決意したというのだ。それは、同時に「日本の降伏が、百万人のアメリカ兵の命を救った」という神話が音を立てて崩れたことを意味する。ビューリッツアー賞受賞者のジョン・ダワーやハーバート・ビックスらも、その点で一致している。
Posted by Picasa
 スターリンは北方領土割譲を条件に対日参戦したのであり、8月8日の参戦と8月15日の日本降伏を受け入れても、領土の割譲は受けたはずなのに、あえて降伏を受けずに攻撃を仕掛け、領土を奪い取っていった。

 ソ連の参戦と日本の無条件降伏が結びつくことが読めなかったアメリカのアジア政策のミスであり、前記ピューリッツァー賞受賞者のハーバート・ビックスが言うように、人道的背信行為である原爆投下をトルーマンは行ったのだった。

 「原爆の使用なかりせば終戦につながらなかったというのは、幻想にすぎない」と多くの人が抱く見方は、この本で見事に論破されている。その使用は、アメリカのオリジナル・シン(原罪)を一つ増やしたにすぎない。

 冒頭に示したように、原爆の役割について、アメリカ国民と同じ見解をとる人の多い豪州国民の考えを変えるのは容易なことではない。ひとたび説が人々の頭の中に入れば・・・。

 だからといって、日本がアジアや当国で行った戦争行為を肯定するものではない。

 戦争は絶対”悪”である。

Sunday, June 11, 2006

其の31 W T O の話し

(この記事は、2005年12月2日付けの週刊ジェンタに掲載した記事に加筆したものです) 

WTOと言えば、世界貿易機関のことである。世界貿易の秩序維持を目的とし、1995年1月に発足した。しかし、こんなものを書いても読んでくれる人はいるまい。

今週のテーマは、同じWTOでも、世界トイレット機構のことである。そんなものがあるのか?と信じない人がいた。世界トイレット・サミットが開催されたと聞いて、彼はもっと驚いた。

左の写真は、タンザニアの公衆便所だとか。

WTO総会も、今年はすでに5回目を迎えて、9月に北アイルランドのベルファストで行われた。チリ、ドイツ、ガーナ、インド、ロシア、アメリカ、中国などから350人のトイレ専門家が集まった。世界各国が国際テロと取り組んでいる最中に、西欧で開かれた初めてのトイレサミットである。

左の写真は、公衆トイレだというが、場所は不明。

中国は、二〇〇八年に北京オリンピックと二〇一〇年には上海で万国博をかかえているから、トイレ革命は至上の命題である。「臭い」「汚い」「仕切がない」の古代的世界から大きく脱皮しなくてはならない。すでにあちこちで近代化は進んでいると聞く。

昨年の開催国シンガポールは、公衆トイレのきれいさでは、右に出る国がない。なにしろ、公衆トイレで水を流さないと罰金をくらう国である。やはり、教育こそが大事である。

そこでシンガポールに開講したのが、世界で初めてのトイレ大学である。トイレットの設計、清潔さ、清掃作業の質、衛生技術などの最低基準を守るための世界的な機関の必要性があったからである。

この大学では、公衆トイレの設計コース、公衆トイレ専門家の訓練コース、環境衛生コースが開講した。早速30人の“学生”が、地元シンガポールの清掃会社から参加した。低いモラル、安い清掃料金、暗いイメージで、公衆トイレはますます汚くなっていく。中には、公衆トイレを目前に力尽きて噴出してしまう人もいるが、その後始末をするのも清掃員である。

それにしてもあきれるのは、公衆トイレの少なさである。世界に公衆衛生施設を持たない人口は26億人に及び、これは世界人口の40%に匹敵する。そして、我がオーストラリアの公衆便所も、汚くはないが、決してきれいではない。そのうえ、恐怖感があるトイレが多いのはいけない。中に誰かいたらどうしよう・・と。 Posted by Picasa

アメリカでこういうジョークがある。

男が公衆トイレに入ったが、中にトイレットペーパーがなかった。彼は、隣りのブースで用を足している人に尋ねた。
「トイレットペーパーは余ってませんか?」
「いいえ」 と返事がきた。
「じゃあ、新聞紙はありませんか?」
「ありませんな!」
「う~ん、10ドル札を1ドル札にくずせませんか?」
男の必死の気持ちが伝わってくる。

毎年11月19日は、世界トイレデー。せめて、清掃する人の感謝の日にしたい。
清潔な公衆トイレは、上品な社会のバロメーター・・というシンガポール政府の標語を、世界に、そしてあなたに。

Saturday, June 10, 2006

其の30 新型機の記録続々 

(この記事は、2005年11月25日付けの週刊ジェンタ紙に掲載した記事に加筆修正したものです)

新型飛行機の話題が続いている。

ボーイング747を抜く世界最大の飛行機がオーストラリアに飛来した。エアバスA380だ。今年1月(2005年)の初公開の時も、四月(2005年)に、フランスのトゥールーズで初飛行した時もそうだったが、その大きさが実感出来なかった。

世界初の総二階建て。エコノミー席だけにすれば800席という。主翼の幅がほぼ80メートル。滑走路の幅から大きくはみ出している。

世界最大旅客機A380はフランスからシンガポールまで初の長距離試験飛行に成功した後、オーストラリアにきたわけだが、やはりデカイ。初期の構想から初飛行まで、16年の歳月を要したというから、空を飛ぶまでの時間は容易ではない。幾多の人々の夢が、この一機にこめられている。
 
このエアバスにも日本の技術が取り入れられた。

特に日本のカーボン繊維の技術が多く採用された。東レ、ジャムコ、住友金属工業、東邦テナックスの4社が早期に参入した後、三菱重工、富士重工、新明和工業、横浜ゴム、カシオ計算機、など合計15社の技術が入っている。

 このA380の飛来の陰にかき消されたのが、ボーイング777型機の新記録であった。

淡い水色のボディ・ボーイング・777-220LR機(下の写真)が、11月9日、香港を離陸して、北部太平洋、北アメリカ領空、中北部大西洋を飛行して、ヒースロー空港に着陸し、コマーシャル・フライトのノンストップ飛行の新記録を樹立した。飛行時間は、22時間43分。総飛行距離は13,422マイルだった。ギネスブックに申請するという。

Posted by Picasa 通常、香港発ロンドン行きはロシア領空を飛行する西回り便で、太平洋、大西洋経由ロンドン行きというノンストップ・フライトは常識的に存在しないが、記録を作るためのフライトだった。

パイロットは四人が搭乗し、二人が操縦、二人が休憩したという。左の人は、ロンドン・ヒースロー空港到着時のパイロットでパキスタン国際航空のアシフ・レザさん。

私もサラリーマン現役時代に、新型機導入の際に何回か招待飛行を受けたが、そのたびに空への夢を多いに膨らませたものだ。

飛行機の記録は限りなく破られていく。

ライト兄弟より50年も早く飛行機を飛ばしたイギリス人男爵ケイリー郷がいる。1853年という。奇才と呼ばれたくらいだから、そうとう馬鹿にされたのだろう。ケイリー卿は、カモメの観察を通じて、鳥が空中に浮くためには、羽ばたきだけでなく、翼の角度と形が大切だということ。また、鳥のはばたきが生み出す、推力、スラストは、揚力とは全く別物だということに気づいた。まさに発想の転換だった。大きな夢と目標に向かって、淡々と努力した者が、最後に勝った例がいかに多いかを歴史は証明している。

「安全」と「安全性」では意味するところは全く違う。この飛行機の損益分岐点は250機で、現在の受注と予約は合計159機だという。損益分岐点も大事だが、未来機には未来型の安全の概念が一層必要となってくる。


Friday, June 09, 2006

其の29 総帥 ヒディンク監督とは

(この記事は、2006年6月09日の週刊ジェンタに掲載した記事に、加筆修正したものです)サッカー・ワールドカップ・ドイツ大会が、ドイツ-コスタリカ戦を皮切りに本日から始まった。4-2でホスト国ドイツがコスタリカを下して快勝した。オーストラリア対日本戦は12日だ。

2006年5月25日の対ギリシャ戦。サッカールーズの壮行会を兼ねた試合だった。不本意にも、中心選手に故障者を抱えての出発となったが、1-0の見事な勝利。観衆9万5千以上のメルボルンMCGスタジアムを沸かした。「70%満足だ」と監督は語った。オーストラリア・サッカールーズを率いるオランダ人、フース・ヒディンク監督とは。 
1998年にオランダをワールドカップ準決勝へ。2002年の大会では韓国をアジア勢初の準決勝へ。韓国は、ヒディンク監督を超厚遇。名誉市民権を授与。スタジアムに彼の名前をつけるは、銅像は建てるは。大韓航空からは終身無料の搭乗。最強の監督として、大統領に!とまで言われた。

昨年11月、オーストラリア・サッカールーズに32年ぶりにワールドカップ出場権の切符を。オーストラリア代表監督を引き受けた時に、ヒディンク監督は、「オーストラリアがW杯出場の資格を得たらそれはミラクルだ」と言った。一回の合宿の後、それを実現させてしまった。

監督としてワールド・カップ3大会連続出場となる。

「誰もが、Fグループでブラジルの3戦全勝を予想している。われわれはそういう国際舞台で3チームと戦えることを喜びにしている。残りの3チームとも、1次リーグ突破には、相当の覚悟がいるはずだ。その点でも、初戦(日本戦=ブラジル人ジーコ対オランダ人ヒディンクの対決)は超大事だ。私はわれわれの能力を信じている。もしサッカールーズが、自信をもって勇敢にぶつかるなら、6月18日の対ブラジル戦も充分互角に行けると思う。オーストラリアは出来るんだという心にしがみついていくならばね。戦ってほしい。苦闘してほしい。それを求めていってほしい」 ヒディンク監督の哲学が出ている。

ヒディンク監督は、敗北の恐怖でチームを引っ張るのではなく、勝利の哲学でチームを引っ張る。選手を尊敬し、一人の人間として遇する。彼は、選手の持つ価値観を大事する。その価値観の上で選手にプレーさせる。このリードがうまいために、選手は監督についていく。選手は、監督の存在によってやる気を引き出され、監督の鼓舞に責任を果たすようになる。

かつて、ヒディンクはこう言った。「監督の役目と言うのは、映画監督に似ている。映画が完成して成功となれば、あとは役者のものだ」 Posted by Picasa

プレッシャーに潰された監督が多い中で、59歳のヒディンク監督は、大試合を楽しむ。容易にあわてふためかない。

プライベートな生活をプライベートに保つ能力もまた見事である。

生まれ育ったオランダのワッセフェルドは人口5千の町。そこにいる両親(88歳と90歳)を訪ねたりもする。大きな趣味を持っている人でもない。名誉を欲しがる人でもない。毎週水曜日、きちっと休みをとり、テニスとゴルフ1ラウンドを楽しむか、ハーレー・ダビッドソンに乗って、オランダの平坦な田舎道を走るという。

その道で、ヒディンク監督は、勝利の方程式を描くのかも知れない。12日の豪日戦に迄ご期待!

Thursday, June 08, 2006

其の28 サッカールーズ 32年前

(この記事は、2006年6月2日付けの週刊ジェンタに掲載したものを、加筆修正したものです。丸山社長の許可を得て転載しています)

 オーストラリア・サッカー・ルーズにとって、実に32年ぶりの世界舞台サッカー・ワールドカップ登場が目前になった。左のマスコット・マークは、サッカールーズが初出場した1974年大会のもので、もうこれを覚えている人もそれほど多くはない。

 この4月22日。シドニー・マーティンプレースに、1974年年当時に出場したサッカールーズの面々が集合した。レイル・ラシック監督以下20名ほど。

 バスでやってきた彼らに、道行く人が手を振る。シドニー中心部のサラリー・マン、オフィスレディーが列を作ってサインをねだり、写真撮影を求める。振り返ってみれば、これまで彼らがこんな歓迎をどこで受けたであろうか。オーストラリア・サッカー史に燦然と輝く偉業だったのだが、それに値する賞賛は受けなかった。わずかに、帰国した時に出迎えた1500人のファンの群れだったとか。

 「これが他国だったら、われわれの銅像くらいできていたろうね。残念ながら、ここはオーストラリアだ。しかし、われわれがどんなことをしたか、認められ始めたのはいいことだ。あれから32年かかったということは、われわれがやったことのマグニチュードのすごさを測ってもらえると思うよ」と元選手。

 下の写真は、サッカールーズキャプテン、ピーター・ウィリアムズのプレーだ。

Posted by Picasa苦しい時代を思い出す人もいた。

 1974年と言えば、ベトナム戦争終結の前年である。選手の中には、ベトナム戦場経験者もいた。「われわれは、ベトナム戦争にいかなくてはならなかったんだ。コカ・コーラとバナナで生き延びたようなもんだよ。あそこじゃ水は飲めないからね」と言ったのは、レイ・リッチモンドさんだ。

 オーストラリアのW杯初出場は、レイル・ラシック氏が監督に就任して四年後の1974年。今日のように32チームと違って、当時は16チームの時代であった。

 「もしオーストラリアが勝ち上がるようなことがあれば、俺はフットボールをやめて、ニワトリの面倒をみるよ」と、馬鹿にしたのは、同じグループでチリ代表ヴァルデス主将だったという。

 結果は2敗1分けでグループで最下位。実力の差が出た。

 今日に見るような、金持ち選手で構成されていたわけではなかった。カネはもらっていたが、とても今日の金額からははるかに遠いものだった。大きな会社と契約出来る時代でもない。ナショナル・チームに参加してやっと1日20ドル。そこから税も引かれる。選手は、貿易関係者、鉱山労働者、セールスマンといった本業を持ちながら、フットボールを副業にした代表チームだった。情熱がなければ出来ない貢献だった。

 MFだったマンフレッド・シェーファー氏(ドイツのメディアから最優秀選手の一人としてあげられた)は、シドニー郊外で毎朝牛乳の配達をしていた。だから、午後にしか練習時間がなかった。

 全員が被雇用者だったために、国際試合や海岸遠征のたびに、雇用主に休暇の申請をしなければならなかった。

 彼らの歴史は、ささやかに人々の賞賛の言葉と写真の中に凝縮されている。オーストラリアのサッカーは、ヒディンク監督というよき指導者であり、魔術師を迎えて、“明治維新”を迎えた。まだまだ脆弱ではあるが、観客の動員数も増え、スポンサーも付き、全てが躍動的になってきた。その折角のチャンスに、Aリーグの試合を有料テレビでしか見られなくしたのは、大きな過ちだと思う。喉から手が出るほど、カネがほしかったということか。順調に、伸びっていってもらいたいものだ。

 6月12日の日豪戦。キックオフは、こちら時間の夜だ。

 あなたならどちらを応援? 

Wednesday, June 07, 2006

其の27 あの椰子の木目指して泳ぐんだ

(この記事は、2005年9月26日付け週刊ジェンタに掲載した記事に修正加筆したものです)
  ドイツで練習中のオーストラリアのサイクリング選手の列に、ドイツ人女性が運転した車が突っ込んで、不幸な犠牲者を出した。特に最愛の妻を事故で失った夫のサイモン・ジレット氏には国民の同情が集まっている。
 今から1年ほど前に遡る。 シドニーの北北西4千キロのところにある日本人にゆかりの島、木曜島(写真上)。1870年頃から真珠貝の採取のために、和歌山県や愛媛県の人が渡ってきたところだ。今、この島には700人の日本人の墓がある。
 その島からさらに北70キロの海上で、知人の誕生パーティ出席のために木曜島に向かっていた両親、兄姉妹3人、いとこ1人の乗った小舟が2004年7月6日に転覆した。その時、父親は、子どもたちに1キロ先の岩礁に向かうように指示した。
 長男のスティーブンが振り向くと、救命具をつけた従兄弟に付き添っていた両親が、お前たちは先に行けとジェスチャーで示した。小さな岩礁にたどり着いて振り返ると、両親と従兄弟の姿はなかった。
 「ここにいては、命が危ない!!生き抜こう!!」 スティーブンは直感した。 遙か水平線上に見える一本の椰子の木の島を目ざして、兄のスティーブンと妹のノリータと姉のエリスが泳ぎ続けた。12歳の兄が2人の姉妹に言った。 「泳がなくてはだめだよ。あそこまで行けば必ず助かる。!」でも、信じられないくらい遠距離だった。その後は、無人の環礁伝いに、毎日一日中泳いだ。  
Posted by Picasa (左の写真は、木曜島の子どもたちで、このストーリーとは無関係です)
 3日目の9日、小さな島で、初めて椰子の実を見つけた。歯で皮をむしりとって水を飲んだ。海水以外で初めての飲み物だった。雨も降らなかった。朝露もない。3人は綺麗な水がほしかった。昼は岩陰で直射日光を避けた。夜は身体を寄せ合って寝た。牡蠣をみつけて、石で砕いて中身を食べた。
 しかし、その島でも生きていけないことを、この兄は再び悟った。
 泳ぎの達者な兄は、2人を励ました。 「もっと泳ごう!」。姉妹は尻込みした。
 「静かに泳げば、鮫に襲われないよ」 兄の経験を教えて安心させた。
 10日の朝、兄がまず泳ぎ始めた。しかし、運悪く逆風。兄が二人の姉妹の後ろに回って、姉と妹を押す。マツ島(とう)に泳ぎ着いた。月曜日だった。彼らの住むバドゥ島から25キロの洋上まできていた。
 海岸に椰子の実が転がっていた。兄のスティーブンが歯と石で椰子の実に穴をあけた。彼は、真っ先に二人の姉妹に飲ませた。あれから三日ぶりに飲む綺麗な水。そして、牡蠣を見つけてたべた。
 捜索していたレスキュー隊は、潮の流れをみてある島に向かった。レスキュー隊の直感が当たった。3人を助けたのは彼らの叔父だった。
 事故からちょうど7日目。体中から絞り出した兄の勇気が姉妹を救ったのだった。オーストラリア中の人々に歓喜を与えた。
 仏典には、愛別離苦という言葉がある。思いも寄らぬ悲しい別れが時にはある。その苦を乗り切って、人に勇気を与え、信頼される存在になっていった人は多い。この人たちの大いなる活躍を期待したい。

Tuesday, June 06, 2006

其の26 ロストワールド ブルーム

(この記事は、2005年11月4日付けの週刊ジェンタに載ったものに加筆したものです)

 皆さんは、西オーストラリア州のブルームに行かれたことがあるだろうか? ロストワールド・ブルームの恐竜の足跡がたくさん見られるのだ。

 テレビ朝日シドニー支局長時代に、インド洋に面するブルームを中心に南北80キロにわたって恐竜の通り道が発見された。 「ニュースステーション」はすぐ行けという。シドニーからパースまで3300キロ。ブルームまで1700キロ。さすがにすぐには飛んで行けなかった。

 足跡は、2本足の長さ数センチの小さいものから、大きいものは4本足のブロントサウルスやステゴサウルスの竜脚類の恐竜など1・7メートルにも達する。この大きなものはアボリジニーの聖地にあって取材できなかった。  
 
 ブルームは、大昔、川のデルタ地帯にあり湿地だった。川の水が恐竜には絶好の住みかになった。泥地帯を示す化石も発見された。恐竜が歩く時にめりこんで泥地帯がひび割れて、そのまま化石になったものが残っている。年代の違う三層になったひび割れの化石もある。 湿地帯であったからこそ、1億年以上も前の足跡が残った。

 ガイドからオリントポッドかマッタバラサウルスのものといわれたが、足跡の化石に腰を下ろすと在りし日の恐竜の活動が彷彿としてくる。  

 ガイドのポールは、化石の発見に相当の時間を費やした人だ。発見されてからは、早速化石ツアーを始めた。海岸沿いのたくさんの化石をみせるために、引き潮の時間に合わせる。ポールは、化石を案内した後は、足で化石に砂をかけて人にわからないようにする。けちな根性ではないのだ。ある年、原住民の聖地で、機械を使って、ステゴサウルスの貴重な足跡を盗んだ化石ハンターがいたから。 


 「3本指の足跡、巨大な恐竜、ステゴサウルスは原住民には大切です。今は、原住民の法律と文化だけでかろうじて守られているので、保護は絶対必要だ」という。(左の写真)

 発見者の一人、トニー・ソルボーン教授(クインズランド大学)は、「大変貴重な化石群だ。1億2千万年~1億5千万年前にかけて生息した恐竜の生態や習性を解明する大きな手がかりになる」と言う。

 国立遺伝学研究所の第2代所長木原均博士は名言を残された。「地球の歴史は地層に刻まれ、生物の歴史は染色体に刻まれている」と。

  Posted by Picasa同時に、インドにあるシダ科の植物で通称ウィリアムソニア・ディアーナの化石もみつかった。とても小さいものだが、しっかりと残っている。左の写真の中央にそのシダの化石が残っているのがわかるだろうか? クリックして拡大してみて頂きたい。

 かつては、インド大陸と地続きだったことをはっきりと伺わせるものだ。恐竜たちが栄えている間に、オーストラリアは他の大陸と切り離されてしまったのか。

 人々を1億2千万年以上の悠久の昔に引き戻す恐竜の足跡の化石の数々。恐竜の足跡の数は数千と言われた。多種の恐竜の化石がみつかったのは、世界的にも珍しいという。

  地球上に生物が誕生して数十億年の間に多くの生物種が盛衰を繰り返してきたが、インド洋を前にした海岸で化石の数々を実際目の前にすると、体が震える。否、海岸に立つと、恐竜たちが海岸を通ったその振動までが足下から伝わってくるような気がする。

 一度でも、大きな恐竜の足跡の中に自分をおいてみてはいかがだろうか。インド洋の日没は、あまりにも美しい。そして、なお多くの化石が近くの海面に沈んだままだ。

Monday, June 05, 2006

其の25 私の切手

(この記事は、2005年7月29日付けの週刊ジェンタに掲載したものに、修正加筆したものです)

豪州2度目の勤務の城川三次郎さんご夫妻が8月に帰国するという。送別の記念品を何にするかと相談された時に、私はすかさず城川三夫妻の個人肖像切手を贈ることを提案した。全員が賛成してくれた。

ある日の夜、城川さん宅へご夫妻の写真を撮りに行き、送別会の日、その切手が披露され、グループの代表からご夫妻に贈られた。切手と同じにこやかな城川夫妻の顔がそこにあった。「個人の顔を切手にいれられるの?」 これが、送別会の場に居合わせた人の少なからぬ反響だった。皆が喜んでくれた。

女王、政治家、皇太子や自国に貢献した人、英雄の肖像の時代から、個人の肖像を扱える時代になった。オーストラリアで、夫婦や子どもの顔、ペットを切手にできる・・というのを、どのくらいの方がご存じだろうか。

Posted by Picasaインターネットに移行しつつある国民を郵便に引きとどめるためには、それなりの魅力を郵便事業がもたなくてはならない。

そこで登場したのが、“個人”をフィーチャーした個人切手である。切手は官製だが、個人主義を大事にするオーストラリアらしい発想だ。世界でも初めての試みだった。

1999年9月1日にメルボルンで開かれた世界郵便切手エキスポで、オーストラリア・ポストが、ハワード首相やウィリアム・ディーン連邦総督、ジェフ・ケネットヴィクトリア州首相(当時)の切手を記念としてプレゼントした。もちろん、一般来客にも同じようなサービスをし、会場内に2時間待ちの行列ができるほど大人気となった。これが、世界で初の個人切手の始まりである。

オーストラリア・ポストの切手収集部門のデイビッド・メイデン担当部長は、「今日は、切手利用者や世界の切手収集家にとって新時代が始まります。われわれが開発した技術は、切手のイメージをこれから一変する可能性を秘めています」と挨拶した。商業目的ではあるが、移り変わる世間の流れを敏感に感じ取った見事な商法である。

このトライアルでの大人気が、オーストラリア郵政公社を元気づけた。なにせ、車のナンバー・プレートも早くから個人の好む番号を許した国だ。最初は、官製の切手の右側に個人の写真を取り込んで作ったものだった。 「パーソナライズド・スタンプ」というが、それを作っているメルボルン印刷所に、私も行ってみた。

誕生日、婚約記念、結婚式への招待状に、子どもの誕生のお知らせや私的な感謝の気持ちを伝える小物として個人用に切手を作るというユニークなサービスだった。また、海外にクリスマス・メッセージや記念品としても使用できるなど広範な用途に着目した発想の勝利である。

今では、同種の事業はオランダやカナダ、先進国と言われる日本にも広がった。


大変化をとげている世界の郵便事情。1年でオーストラリアポストが運ぶ手紙の量はだいたい35億通。電話やファックスの普及の時代からメッセージを運ぶ量は減り始め、怒濤の如く押し寄せた携帯電話、Eメール、安く送れる国際クーリエなど郵便事業は四面楚歌になり、むしろ孤立化の危険さえある。

Eメール。と言っても、所詮、バーチャルな手紙は、やはり人間関係をある意味で無味乾燥なものにする。私は、自分の撮った四季の写真を、できうる限り多くの人に郵便で手紙を送ってきた。きちんと、切手を貼って。

アメリカ郵政庁が、ファーストレディー時代の業績を称えたヒラリー・クリントンの肖像画の切手の回収を命じた。
切手が封筒に貼れないという苦情が殺到したのだ。
クリントン上院議員は全面調査を要求した。郵政庁に調査委員会が設立され、数ヶ月かけて、調査結果が報告された。
*切手は正常に作成された。
*糊も規定通りに付けられていた。
*問題は、国民が切手を裏返しに貼ろうとしたために起きた。

もちろん、これはジョークだ。
切手にまつわる話は世界に多い。

ロマン・ロランは若き日、人生と芸術に悩んでトルストイに手紙を書いた。「人生、いかに生きるべきか」を問うために。トルストイはこの無名の青年に、38頁にものぼる丁重な返事をしたためた。文豪トルストイによる精神の触発で、ロランの才能は花開いた。ロマン・ロランはどんな切手を貼り、返信にはどんな切手が貼られたのだろう。

これほど大きな出会いでなくとも、自作の写真から作った切手を貼って、
遠い人を近くにたぐり寄せてみてはどうだろうか。

Sunday, June 04, 2006

其の24 パークス天文台とアポロ計画

(この記事は2005年9月30日付けの週刊ジェンタ紙に掲載したものを加筆したものです)

 あの日、世界で6億人がカウラの北西100キロにあるパークスからの映像をみて感動した。オーストラリアの標準時で、1969年7月21日午前6時17分、だった。

 ニール・アームストロング船長とオルドリン飛行士は、人類で初めて月に第一歩を記した日だった。月から送られてくるテレビ信号を3箇所の追跡ステーションで受けていた。キャンベラの近くのハニーサックル・クリーク追跡ステーションと、カリフォルニアのゴールド・ストーン。そして、パークスの電波天文台(左の写真)。

 3箇所の映像は、ヒューストンの飛行司令部に送られた。最初の数分、NASAは、スイッチを切り替えながら、ゴールド・ストーンとハニー・サックルクリークのましな方の映像を出した。しかし、パークスの映像は抜群によかった。8分後からは、2時間半の残り全部をパークスの映像で通した。
 
 風がないという立地条件で選ばれたパークス天文台だが、1969年のアポロ11号の時は、風速110キロ(時速)を受けて、直径64メートル、重さ千トンのパラボラは崩壊に危険もあったという。幸い、風はおさまった。

 ちなみ、富士山の山頂の最大瞬間風速は、毎秒91メートル。D-51の機関車を持ち上げるエネルギーだそうだ。その強風下で、月にパラボラを月に向けたのである。

Posted by Picasa
 翌1970年4月。アポロ13号に大事がおきた。

 打ち上げから55時間55分後に月へ向かう途中に、司令船の酸素タンクが爆発したのだ。水、電気、生命維持装置に被害はおよび、3人の宇宙飛行士は生命の危機にさらされたが、無事に地球に生還した。その陰に、またパークス天文台(左の写真)の大活躍があった。

 パークスは、アポロ13号では、公式のサポート基地に入っていなかった。

 当時のパークス天文台長のジョン・ボルトン氏の発言だ。
 
 「私たちは悲壮なシグナルを受けるや、われわれはすぐ行動を起こしました。公式の依頼を待つ必要はありませんでした」 

 人の命を救へ・・・。NASAの緊急時のマニュアルは最低24時間の猶予が必要だった。ボルトン天文台長とスタッフは、もう動いていた。パークス天文台は、通常の手順では1週間かかるものを、緊急対応を6時間以内でやってのけた。

 次の8時間、アポロ13号からの微弱な信号を、パークスはしっかり受けていた。その信号は、月に着いたアポロ11号の時の千分の一ほどだったという。緊急事態に突入した宇宙船は、電力をセーブしなければならなかったからだ。

 月への着陸を諦めた13号は、地球へ向かった。残された電力もほとんどないアポロ13号は、エンジンのショート・バーンに奇跡的に成功し、完璧な大気圏再突入軌道に乗せられた。
 
 爆発から4日後、3人の飛行士は、オーストラリア時間の4月18日に無事太平洋上に着水した。声高なアメリカ人の華やかなアポロ計画の陰で、オーストラリアの静かにして見事なサポートだった。

 オーストラリア人の誇れる人命救助だった。

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