其の53 尊敬する韓国人壮年 張 勝雨さん
(この記事は、2006年9月29日発行のシドニー発行の週刊ジェンタ紙の記事に修正加筆したものです)

1976年10月5日、雨のシドニー空港に、若干の荷物と百ドル札を持って降り立った一人の韓国人中年男性がいた。名前を張勝雨(チャン・サンウ)さんという。シドニー空港からタクシーでYMCAホテルへ。
運転手になけなしの100ドル札を渡す。だが、運転手は一向に戻ってこない。「失敗した」と、彼は思った。30分ほどして、運転手が釣りを持って戻ってきた。張さんは、「この国は信用できる、と思った」と言う。
彼は、1936年にソウルの裕福な家庭の一人っ子として生まれた。子どもの時、どうしても忘れることの出来ない、日本植民地時代の創始改名を経験した。創始改名とは、1939年(昭和14年)に公布され、1940年に実施されたもので、陸軍志願兵制度、第三次朝鮮教育令、創始改名の3つは、「皇民化政策」(天皇のためにすべてを尽くす朝鮮人をつくりあげる為の政策)の3本柱の1つだった。
「張 勝雨」さんは「張山岩男」にさせられた。国民学校では、日本語しか許されなかった。なぜ、自分の本当の名前が使えないのか? 韓国語を話すと、先生から「こっちにこい」と呼ばれて、足を棒で打たれた。「こら」と「こっちにこい」という日本語の発音は、いまでも張さんは筋金入りだ。
やがて、父親の会社の倒産で、一家の生活は突如奈落の底へ。苦労して大学で物理学を専攻し、ロッテに勤めた。しかし、40歳の時、会社からクビを言い渡された。日本語が話せない人は不要になったのだ。3人の幼い子どもがいた。
再び日本語で苦労するのなら・・と、高校時代に勉強した若い国オーストラリアへの移住を決意した。なけなしの二百米ドルをもって、まず日本へ。
何人もの日本人に激励されて、シドニーへ向かった。それが、冒頭に書いた1976年10月5日、雨のシドニー空港だった。
手持ちのカネが50ドルになった時、一人の韓国人が、食事付きで泊めてくれ、別の韓国人が部品工場の仕事を斡旋してくれた。初の給料日に手にしたのは、週休113ドル。「それはもう、大金でした」と。20数ドルをとって部屋を借り、残りは本国で必死になって家族を支える妻に送金した。
次に、永住ビザを取りなさいと、友人がカネを貸してくれた。1979年12月、家族を呼ぶ許可が出た。張さんは来豪三年で、家族を呼び寄せた。生活のために、張さんは一人で三つの仕事をした。アパートの掃除の仕事を終え、2箇所の工場勤務をこなした。1日13時間労働で、睡眠5時間をやり抜いた。
妻のヨン・ジャさんも靴工場へ働きに出た。
多くの友人の激励を受けながら、10年後には家も買えた。
1993年には、ブッシュファイアが200メートル先まで。消防署の避難勧告もなんのその。「俺の家は守り抜く」と屋根でホースから水を撒いた。
シドニー空港に百ドル札一枚で降りた張さん。長男は、中国駐在を終えて中国人美人と結婚し、シドニーで日本食レストランを開業。長女と次女は地域で活躍。
張さん夫婦は、大成してなお、韓国人社会にも尽くしている立派なご夫妻である。こうありたいと思う人である。(了)

1976年10月5日、雨のシドニー空港に、若干の荷物と百ドル札を持って降り立った一人の韓国人中年男性がいた。名前を張勝雨(チャン・サンウ)さんという。シドニー空港からタクシーでYMCAホテルへ。
運転手になけなしの100ドル札を渡す。だが、運転手は一向に戻ってこない。「失敗した」と、彼は思った。30分ほどして、運転手が釣りを持って戻ってきた。張さんは、「この国は信用できる、と思った」と言う。
彼は、1936年にソウルの裕福な家庭の一人っ子として生まれた。子どもの時、どうしても忘れることの出来ない、日本植民地時代の創始改名を経験した。創始改名とは、1939年(昭和14年)に公布され、1940年に実施されたもので、陸軍志願兵制度、第三次朝鮮教育令、創始改名の3つは、「皇民化政策」(天皇のためにすべてを尽くす朝鮮人をつくりあげる為の政策)の3本柱の1つだった。「張 勝雨」さんは「張山岩男」にさせられた。国民学校では、日本語しか許されなかった。なぜ、自分の本当の名前が使えないのか? 韓国語を話すと、先生から「こっちにこい」と呼ばれて、足を棒で打たれた。「こら」と「こっちにこい」という日本語の発音は、いまでも張さんは筋金入りだ。
やがて、父親の会社の倒産で、一家の生活は突如奈落の底へ。苦労して大学で物理学を専攻し、ロッテに勤めた。しかし、40歳の時、会社からクビを言い渡された。日本語が話せない人は不要になったのだ。3人の幼い子どもがいた。
再び日本語で苦労するのなら・・と、高校時代に勉強した若い国オーストラリアへの移住を決意した。なけなしの二百米ドルをもって、まず日本へ。
何人もの日本人に激励されて、シドニーへ向かった。それが、冒頭に書いた1976年10月5日、雨のシドニー空港だった。
手持ちのカネが50ドルになった時、一人の韓国人が、食事付きで泊めてくれ、別の韓国人が部品工場の仕事を斡旋してくれた。初の給料日に手にしたのは、週休113ドル。「それはもう、大金でした」と。20数ドルをとって部屋を借り、残りは本国で必死になって家族を支える妻に送金した。
次に、永住ビザを取りなさいと、友人がカネを貸してくれた。1979年12月、家族を呼ぶ許可が出た。張さんは来豪三年で、家族を呼び寄せた。生活のために、張さんは一人で三つの仕事をした。アパートの掃除の仕事を終え、2箇所の工場勤務をこなした。1日13時間労働で、睡眠5時間をやり抜いた。
妻のヨン・ジャさんも靴工場へ働きに出た。
多くの友人の激励を受けながら、10年後には家も買えた。
1993年には、ブッシュファイアが200メートル先まで。消防署の避難勧告もなんのその。「俺の家は守り抜く」と屋根でホースから水を撒いた。
シドニー空港に百ドル札一枚で降りた張さん。長男は、中国駐在を終えて中国人美人と結婚し、シドニーで日本食レストランを開業。長女と次女は地域で活躍。
張さん夫婦は、大成してなお、韓国人社会にも尽くしている立派なご夫妻である。こうありたいと思う人である。(了)
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