其の33 ヒロシマ原爆とジュノー博士
( この記事は、2005年9月23日号の週刊ジェンタ紙に掲載した記事に修正加筆したものです) 2005年9月13日、ジュネーブで、スイス人医学者マルセル・ジュノー博士の功績を讃えた記念碑(一番下の写真)の除幕式が行われた。
1945年8月6日午前8時15分米軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」(左)が投下した原子爆弾「リトル ボーイ」(2番目の写真の左側の爆弾)が炸裂し、ヒロシマ市はかき消された。
同じ年の8月9日に赤十字国際委員会駐日代表として来日したマルセル・ジュノー博士は、連合軍の捕虜などを調査することにあったのだが、原爆被害のあまりの大きさに、9月8日にヒロシマに入った。爆心地ヒロシマに入った初めての外国人医師である。それも連合国に呼びかけて集めた15トンの医薬品を持って入ったのだった。 被害調査に当たるとともに自らも治療に携わりました。
博士の努力のおかげで薬が各救護所に配置され、何千人もの被爆者の治療に役立てられた。博士は、4日間、実態をつかむために各病院を訪れた。そこで博士がみた物は、人間の想像を遙かに超えた阿鼻叫喚の姿だった。
ヒロシマに滞在中のジュノー博士に同行した広島出身の婦人科医松永博士は、ジュノー博士が克明にメモを取るのをみた。
残念ながら、その貴重なメモはみつかっていない。「私たちは、広島城の天守閣に登りました。ジュノー博士が、破壊の範囲を知りたかったからです。(略)そこから、市の全貌が見渡せました。雲の切れ間からところどころ日が射していました。市は焼けこげ、灰になっていました。炭化した死体のようでした。私たちは、言葉もなく立ちつくしていました」 松永博士が残した言葉だ。
数分して、ジュノー博士は言った。「西はどちらだ。爆心地はどこだ。そこに行こう」
博士は、焦土と化した爆心地の惨状をつぶさに観察した。瓦礫の中に人骨を発見した。彼は、その骨をやさしくなで始めた、という。まるで、死者を慰めるかのように。
博士は、医療チームが撤退した後も広島に残り、被爆者救護に全力を尽くした。人間愛に満ちた行動である。
博士は、エチオピア、スペイン、ベルリン、ポーランド、フランスなど戦争で引き裂かれた国々での類い希な人道活動に全力をあげた。
一九五九年に国際赤十字委員会副委員長に選任されたあと、一九六一年に心臓発作で亡くなった。それも患者を運んでいる時に、である。最後まで人に尽くしきった人である。
いま、米国やロシアなど核保有5カ国は計3万発近くの核兵器を保持し続けていると言われる。秋葉広島市長は、今年の平和宣言で、核保有国と北朝鮮などの「核保有願望国」に対し、「(核兵器廃絶を求める)世界の大多数の市民や国の声を無視している」と批判し、今後1年間を、被爆者の願いを受け継ぎ、 核廃絶へ歩む 「継承と目覚め、決意の年」にすると誓った。
ヒロシマの平和記念公園南の入り口に建てられている博士の記念碑には、ジュノー博士の著作の言葉から、「無数の叫びがあなたの助けを求めている」が刻まれている。(左の写真は、碑の前に立つのジュノー博士の息子さんブノワ・ジュノーさんとご家族)「彼は不可能だということを知らなかった。だから彼は実行した」と言うマーク・トーエンの言葉がジュノー博士の行動の原点だったという。
そもそも、5カ国に核兵器の所有を誰が承認したのか。人類の悲願である核兵器廃絶は、不可能であるはずがない。
われわれは、何が何でも「戦争と暴力の20世紀」を乗り越えなくてはならない。(参考:ICRC資料) DR.MARCEL JUNOD(SWISS)1904-1961
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