其の24 パークス天文台とアポロ計画
(この記事は2005年9月30日付けの週刊ジェンタ紙に掲載したものを加筆したものです)あの日、世界で6億人がカウラの北西100キロにあるパークスからの映像をみて感動した。オーストラリアの標準時で、1969年7月21日午前6時17分、だった。
ニール・アームストロング船長とオルドリン飛行士は、人類で初めて月に第一歩を記した日だった。月から送られてくるテレビ信号を3箇所の追跡ステーションで受けていた。キャンベラの近くのハニーサックル・クリーク追跡ステーションと、カリフォルニアのゴールド・ストーン。そして、パークスの電波天文台(左の写真)。
3箇所の映像は、ヒューストンの飛行司令部に送られた。最初の数分、NASAは、スイッチを切り替えながら、ゴールド・ストーンとハニー・サックルクリークのましな方の映像を出した。しかし、パークスの映像は抜群によかった。8分後からは、2時間半の残り全部をパークスの映像で通した。
風がないという立地条件で選ばれたパークス天文台だが、1969年のアポロ11号の時は、風速110キロ(時速)を受けて、直径64メートル、重さ千トンのパラボラは崩壊に危険もあったという。幸い、風はおさまった。
ちなみ、富士山の山頂の最大瞬間風速は、毎秒91メートル。D-51の機関車を持ち上げるエネルギーだそうだ。その強風下で、月にパラボラを月に向けたのである。

翌1970年4月。アポロ13号に大事がおきた。
打ち上げから55時間55分後に月へ向かう途中に、司令船の酸素タンクが爆発したのだ。水、電気、生命維持装置に被害はおよび、3人の宇宙飛行士は生命の危機にさらされたが、無事に地球に生還した。その陰に、またパークス天文台(左の写真)の大活躍があった。
パークスは、アポロ13号では、公式のサポート基地に入っていなかった。
当時のパークス天文台長のジョン・ボルトン氏の発言だ。
「私たちは悲壮なシグナルを受けるや、われわれはすぐ行動を起こしました。公式の依頼を待つ必要はありませんでした」
人の命を救へ・・・。NASAの緊急時のマニュアルは最低24時間の猶予が必要だった。ボルトン天文台長とスタッフは、もう動いていた。パークス天文台は、通常の手順では1週間かかるものを、緊急対応を6時間以内でやってのけた。
次の8時間、アポロ13号からの微弱な信号を、パークスはしっかり受けていた。その信号は、月に着いたアポロ11号の時の千分の一ほどだったという。緊急事態に突入した宇宙船は、電力をセーブしなければならなかったからだ。
月への着陸を諦めた13号は、地球へ向かった。残された電力もほとんどないアポロ13号は、エンジンのショート・バーンに奇跡的に成功し、完璧な大気圏再突入軌道に乗せられた。
爆発から4日後、3人の飛行士は、オーストラリア時間の4月18日に無事太平洋上に着水した。声高なアメリカ人の華やかなアポロ計画の陰で、オーストラリアの静かにして見事なサポートだった。
オーストラリア人の誇れる人命救助だった。
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