Weekly Go 豪
負け犬の遠吠え 友の会シドニー支部

 

Monday, January 30, 2006

其の6 今年の暮れはこれで

Posted by Picasa デジカメの皆さん 今年暮れはこれでいこう

 この大晦日、前日まで元気だったのに朝から体が動かない。折角下見した場所も放棄して、仕方なく日没後にシティ・レールに乗って出かけた。遅刻だから、当然いい場所などあるはずもない。上から木がかぶった場所だが、ここで我慢するかと腰を下ろした。

 そこに座っていて驚いたのは、デジカメのフラッシュを使って遠くのオペラハウスとハーバー・ブリッジを撮ろうとする人のなんと多いことか? 正直申し上げて、フラッシュをたいた人の99.99%、いな120%は失敗である。一人ひとり注意してさしあげたいが、嫌われるので、だまって密かにみているだけである。

 そもそも内蔵フラッシュはせいぜい3メートルが限度なのだ。遠くのオペラ・ハウスまで届くと思ってはいけない。3メートル先の恋人を撮るのとわけが違うのだ。気は早いが、今年の暮れの花火大会でそういう愚をさけるために、いくつかヒントを差し上げよう。

①花火の撮影に三脚は必需品である。つまり三脚がなければ花火の撮影はやめた方がいいと割り切って頂きたい。但し、格好の固定した台などがあって、リモコンのシャッターが使えるなら、この場合は例外である。この大晦日、私の斜め前に立った女性が、何回撮ってもうまくいかないようで(あったり前だが)、ついにはボーイフレンドの肩にカメラを乗せて撮っていたが、同じことである。二脚の人間は三脚の代用品には絶対絶対ならないのだ。
②ISO感度を50か100に設定する。
③次に、フラッシュを「発光禁止」にセットする。
④次に、手持ちのカメラにノイズ・リダクションの機能があるなら、これを「オン」にする。
⑤もし、ノイズ・リダクション機能が無ければ、露出補正機能でマイナス1~2の間で設定する。
⑥次は露光時間。私の場合は、シャッターを手動にし、5秒から10秒の間を適当に設定する。最低2秒はほしい。⑦最後に、焦点は無限大にセット。

これだけやれば、相当楽しみである。今年の暮れは、絶対無駄なことはやめていい写真を撮ろう。カラーでご紹介したいところだが、予算がない。上の写真は、デジカメではない。フィルムで撮った花火である。2004年の暮れである。

では、今年の暮れこそいい写真でばっちり決めよう。頑張ろう。

其の5 ひょう 雹 Hail

Posted by Picasa 雹・霙・霰

ふりがなをふれますか?「ひょう」「みぞれ」「あられ」が正解である。

今週は、漢字のテストではなく、雹の話だ。昨年(2005年)1月20日、夜8時ごろ自宅にいた。屋根で大きな音がし、没頭していた仕事から現実に引き戻された。誰かが、我が家の屋根に向かって投石を始めたのではないかと思わせるほどの音だった。あっという間の2~3分。一過性だったが、我が家のガレージに通じるアクリルで出来た回廊の屋根には、しっかりと穴が30個近く開いていた。

 現役時代、シティに勤務していた時に経験したシドニーの例の雹の大被害を思いだした。1999年4月19日だった。この時には、最大時グレープフルーツ大のものが降ったそうだ。だから、車のガラスや屋根瓦を割られ、多くの人が天のいたずらに泣かされた。私のスタッフの一人も、出張から帰ってきたら夫にみせるのだと、テニスボール大の雹を後生大事に冷凍庫に保存していた。

 そのくらい大きな雹になると、白く濁った部分と、透明の部分からなっていることに気づく。大きい雹は、中心から渦を巻いて、濁った部分、透明部分を繰り返す。これは雹の成長過程でできるもので、不透明部分は急激な上昇気流に乗っている時にでき、透明部分は静かに落下中にできる。雹は、積乱雲の中で、なんども急上昇、落下を繰り返しながら成長を続け、上昇気流が支えられなくなった時に落下し始める。上の写真をご覧下さい。これは、昨年12月に降った時のものを、撮影したものだ。小さいが、濁りと透明部分がはっきりと出ている。
 
 中国河南省では、卵大のサイズの雹で、22人が死亡し、200人が怪我をした記録があるらしいが、恐らく同時に起きた竜巻で、死者が出たのではないかと推察され、この報道にはいまいち信頼がおけない。アフリカ・ナイジェリア北部のカノ市では、重さ2キロのフットボールサイズの雹が降り、7か村の家屋、家畜、農場が被害に遭ったという。信頼できる報道としては、1984年のドイツで、雹で400人が負傷している。世界最大の雹はインドで降るそうだが、記録はみつからない。

 なんでも「世界一」が大好きなアメリカのことを書かなくては失礼に当たるだろう。2003年にネブラスカ州のオーロラという町で降った雹は、17センチを超え、重さが450グラムだったという。記録された単体の雹としてはアメリカ史上最大のものだという。この手の雹は、落下速度が時速160キロになると言われる。プロ野球の剛速球投手と言われる人の球速でもせいぜい一五〇キロだ。それを上回る速度で、こんなものが天から降ってきたのでは、ひとたまりもない。

 2004年には、私はブルーマウンテンで運転中2回も雹に遭った。うち1回は激しい雹だった。ほうほうの体で近くの屋根付きのガソリンスタンドに避難し事なきを得たし、もう1回も、車ごと大木の下に入り込み自然の天蓋のありがたみを感じた。まさに、「感謝感激、あめ、あられ」だった。もう死語になってしまった言葉が口をついて出るほど、ありがたかった。死語がでるほど私は古い人間になってしまったのか、それとも、最近は社会全体が感謝する場面に遭遇しなくなったから死語になってしまったのだろうか。(了)

Friday, January 20, 2006

其の4 欧米のマスコミ

歯に衣着せぬ米マスコミ

 年明けだ。軽い話題でいこう。
 まずは、イギリスで流布するジョークから。
 
 チャールズ皇太子が車でカミラ家へ入ろうとしたとき、運悪く門の所でカミラの愛犬をひき殺してしまった。
 チャールズは車から降りて家の方へ行きかけたとき、そばに古いランプが落ちていた。彼がランプを拾い上げ綺麗にすると、中からランプの精が現れた。
 「お礼のしるしに、一つだけあなたの願いをかなえてあげましょう」
 チャールズは、即座に言った。
 「カミラの愛犬を生き返らせてくれないか」
 ランプの精は犬を調べた。
 「残念ながら犬は即死です。何か他の願いはありませんか」と精は言った。
 「カミラを美人にしてくれないか」とチャールズは頼んだ。

 すると、精は、
 「ちょっと待ってください。犬をもう一度よく調べてみます」
 

 *****    *****
 

 チャールズ皇太子とカミラ・コーンウォール公爵夫人は、再婚後の初の公式外国訪問として、昨年十一月アメリカを訪問した。そもそも、二人の旅の目的は、公式的にはイギリスへの観光の普及にあったのだが、チャールズ皇太子個人的には、未だにダイアナ人気の高いアメリカに新夫人を紹介したいという強い気持ちがあったとされ、さらに汚染と地球温暖化の環境改革運動家として印象づけを狙っていたともされる。
 

 以下は、ロサンゼルス・タイムズの記事である。

 この旅行は、冒頭から決定的にかったるい世論調査で始まった。訪問前日の調査で、アメリカ国民中一〇人のうち八人が訪問に無関心であり、三人に一人がウィリアム王子やハリー王子の方が会いたいという結果が出た。そして、イギリスの新聞ガーディアンの記事では、ワシントンの学生が、「水差しのような耳をした年寄りと馬面の夫人を見て、どうしてわれわれがイギリスに行く気になれるものかね」と言っている。
 最近、皇太子は一部電動のトヨタのプリウスを購入したが、三軒あるうちの一軒の家の車庫に、二台のアストン・マーチン車と装甲仕様のベントレー車一台など八台とともに入っているだけだ。
 この旅行で、彼は37万ドルを使って飛行機(北村注B-777)をチャーターした。イギリスでは、昨年は前年の2倍の200万ドルを公式訪問に使ったと国会議員が非難しているのだ。
 彼は広大な特権を得ているし、幾分エキセントリックであり、非常にスポイルされた男だ。花に話しかけるのが好きであり、デイリー・テレグラフ紙の前編集長によれば、サンドイッチのパンの歯触りやサイズを書いて渡すだけではなくて、自分のタオルとトイレット・ペーパーまで訪問先にもっていくのだ。
 と同紙は書く。
 
 ここまで書いたが、カミラ夫人が持参した50着のアウトフィットとメークアップ・アーチストのご一行に触れるスペースはなくなった。

Tuesday, January 10, 2006

其の3 スコットランドの正月

ホグマニーの思い出

 2006年 明けまして、おめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 私がBBC放送局に勤務していた時、スコットランドでは、クリスマスよりも正月の方を祝うとBBC日本語部のジョン・ニューマン部長が教えてくれた。そこで家族旅行を兼ねて行ったのが、スコットランド・ハイランドのピトロッホリの町だった。

 スコットランド全体が、大晦日の夜から、人の住む所、ホグマニーという飲めや歌えのどんちゃん騒ぎになった。人々は、大晦日から元旦にかけて、親戚や友人を訪問する。かつて、夜中12時を回って最初の客(First Footers)が、背が高くて、髪の毛が黒くて、ハンサムで、なおかつ石炭1個・パン1個・ウィスキー1瓶を持って来れば、その年はいい年になるとされた。そして、石炭をくべ、パンを食卓にのせ、ウィスキーを家長のグラスに注いだという。いまでも、その風習は残している。

しかし、最初の客がかなり色白の男性であれば、その年は凶だという。これは、おそらく、昔、色白のヴァイキングが犠牲者にした人の将来の繁栄よりも、略奪に関心があったせいでもあろう。スコットランドのホテルでは、いまやこのホグマニーを商戦として扱っており、どこのホテルもニュー・イヤーズ・パーティは、満員の盛況だそうだ。

 私はBBCから紹介されたある家庭を訪問した時、ガイジンとしてもお許しを頂いて、ウィスキーしか持参しなかったが、ファースト・フッターが黒い髪の人は大歓迎なのだと言って、黒髪の日本人を歓迎してくれた。スコットランドで昔から起きたこと、それは、この愛すべき風習が喧嘩と二日酔いに終わり、知己を失った人も多いと言われる。
 
 ホグマニーのルーツは、冬の厳寒期の太陽と火の信仰に遡ると言われる。古代ローマの冬の祭りを発展させたものでもあった。やがて、ヴァイキングがキリスト降誕祭をもってくると、それがスコットランドでは知られるところとなり、冬の祭りは地下に潜行した。そして、17世紀に再び表にでてきた。しかし、厳格なスコットランドのプロテスタントは、カトリックのミサを廃止して、すべてのエネルギーを新年の挨拶に注ぎこんだのである。実際、1950年代までは、スコットランドでは、クリスマスは通常の労働日となっていた。こんにち、1月1日はイギリスの休日であるが、スコットランドだけは1月2日まで延長されており、多くの二日酔いに国家的休息を与えているのである。いな、むしろ、国家的保護によって、2日酔いが3日まで持ち越されたと言った方が適切である。従って、ホグマニーは、スコットランドでは遙かに重要な行事になっているのである。当然、贈り物は新年に行われる。

 ホグマニーの語源も諸説ある。アングロ・サクソンのホーリー・マンス(聖なる月)や「新たなる朝」という言葉から由来しているというものや、フランス古語の「贈り物」に源がある人もいる。
 この日は、欧州最大のストリート・パーティが、エディンバラで行われるのだ。「オールド・ラング・サイン」を皆で歌う。2番はテンポをあげて歌う。お馴染み、スコットランドの生んだ偉大な詩人ロバート・バーンズの作詞だ。彼の詩句は、ベートーヴェンやメンデルスゾーンにまで影響を与えた偉大な詩人だった。

 日本では「蛍の光」である。「蛍の光」は四番まであるが、第二次大戦以降は二番までしか歌わない。「筑紫(つくし)のきわみ、みちのおく、海山(うみやま)とおく、へだつとも、その真心は、へだてなく、ひとつに尽くせ、国のため」。 この歌は、日本の侵略・植民地化に対して独立を目指した朝鮮半島の抗日運動では、「わが大韓万歳!」と歌われた。
 
 原詞とは全く異なる詞にロバート・バーンズも驚いたに違いない。


 そして、元日の夜。人々は、牛皮運び、棒で牛皮を叩き、叫び、妖精や悪魔除けのまじないを繰り返して家を囲む。

 何はともあれ、新年だ。決意を大事にしたい。およそ4000年前、バビロニアの人たちは、借用していた農機具を所有者に返すことから新年を始めた。新年の決意。今年は皆さんの何でしょうか?
 
 今年も、このコラムのご愛読をぜひお願いしたい。(三田村 元樹)

其の2 アンザック・デー

アンザック・デー 90周年に思う
(これは、ジェンタ2005年5月に掲載された小生のコラムを転載したものです)

 新聞に折り込まれてきたアンザック・デー90周年の特集号をめくっていたら、ガリポリ半島上陸後の戦闘で、オーストラリア兵士が、塹壕でグラムフォンの蓄音機をかたわらに置いて、敵の動きを見張っている写真があった。苦痛を味わった上陸作戦にくらべて、えらく余裕を伺わせる写真だった。蓄音機からの音楽を聴きながらの戦闘行為の写真は初めてみた。

 そもそも、アンザック・デーとは、1915年4月25日に、英仏軍とともに、オーストラリア軍とニュージーランド軍が上陸を敢行した日であるが、このことは、またいつか紙幅を費やして語ることにしよう。

 このオーストラリア軍とニュージーランド軍が、故国を出発して戦地へ向かったのが、1914年10月、11月のことだった。第1次輸送船団を構成したのは、ニュージーランド・ウェリントンからの輸送船10隻とオーストラリア・フリーマントルからの輸送船28隻だった。この船団を護衛したのは、オーストラリアの巡洋艦「シドニー」と「メルボルン」、イギリス艦「マイノートア」、そして、なんと日本の巡洋艦「伊吹」であった。
 当時日英同盟でイギリスと同盟関係にあった日本は、3万を載せた第1次船団をインド洋でドイツの攻撃から守る任務をイギリスから依頼された。
 1914年11月2日、フリーマントルを出港した船団は、11月25日、コロンボを経由して、無事イエメンのアデンに入港した。「伊吹」はここで、紅海を北上してエジプトのアレキサンドリアに向かう船団と別れて、帰途についた。伊吹の航海日誌には「輸送船隊出港西航ス惜別ノ情盡キス」と書かれていたという。

 当初は、オーストラリア軍とニュージーランド軍は、イギリスで訓練を受けることになっていたが、急遽エジプトのアレキサンドリアに変更され、そこでANZAC軍として編成されたのである。そして、ガリポリ半島に上陸を敢行したが、当初予定した上陸地点には上陸できず、地形の悪い場所に上陸を行った。さらに、そのガリポリ上陸作戦以降は、ご存じの方も多いと思うが、ひたすらイギリスの無謀ともいえる作戦で、多数の死者をだしたのである。
 たまたま、今年インターネットをみていたら、こういうことを書いている日本人がいた。“現在、アンザックデーは、その恩(日本艦による護衛の)も忘れて、日本人を見かけたら生卵をぶつける日であります”と。

 第2次世界大戦の1942年2月19日、240機以上の日本軍の航空機がダーウィンに空爆を行い、600人以上の死傷者をだした。この空爆は翌年11月まで断続的に続いたのである。仮に第1次大戦の時の日本側による恩がオーストラリア側に存在していたとしても、この史実を考えれば、卵の一つや二つを投げられても不思議ではない。国際間の友誼の構築は、一朝一夕では出来ない。また友誼とか友好という無形のものは、一つの暴力行為で簡単に崩壊してしまうものなのである。

来年2006年は、日豪交流年。盤石の友好の基礎を築く絶好のチャンスと思うのである。





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