Weekly Go 豪
負け犬の遠吠え 友の会シドニー支部

 

Friday, April 01, 2011

ベトナムからの地震・津波のお見舞い

私は、今朝、日本から戻りました。今回の東北・関東地方太平洋沖地震に対して、国内はもとより、海外の多くの方々から支援が送られていることを肌身感じ、ほんとうに「You are not alone」を実感しています。

そして、この度、ベトナム外務省のタインさんを通じ、私たちが支援している各省・市の枯れ葉剤被害者協会からのお見舞いのご連絡を頂いたことに、さらなる感銘を受けています。

地震・津波に遭われた犠牲者・被害者、そして、ある意味で人災ともいうべき原発の暴走の被害を受けた方々に、掛ける言葉を失います。

しかし、「冬は必ず春になる」を固く信じて、東北、北関東の方々の粘り強い復興の力を信じて、いま、多くのボランティアが支援に動いています。

ベトナム外務省のタインさんからのメールをご披露し、私たちに支援をしてくださっている方々とともに、ベトナム人の友情を分かち合いたいと思います。
北村さんへ、
まず、日本の巨大な地震と津波に心からお見舞いを申し上げます。そして、クアンガイ省、ダーナン市、ニンビン省、ヴィンフック省、フート省の各省・市の枯れ葉剤被害者協会からのお見舞いの電話をいただきました。

「日本の皆さん大丈夫ですか?」 「ボランティアの皆さん無事ですか?」との電話でした。また、団・トゥイ・チャムのお母さんからのお見舞いの電話ももらいました。
この数日、毎日、いつも日本のニュースが流されています。ベトナムの人たちもどうやって日本の皆さんを支援するのか考えています。この巨大な災害に通して、いろいろな感動な話を聞きました。日本の皆さんは本当に素晴らしいと思います。

このメールを通して、ベトナムから日本へのお見舞い言葉を送りたいと思っています。
レ・ドゥック・タイン



タインさんには、早速お礼を申し上げ、お見舞いのご連絡をくださった各省・市の枯れ葉剤被害者協会とトゥイーチャムのお母さんにくれぐれもお見舞いのお礼をお伝えして下さるように、お返事しました。

第二次世界大戦後の日本の復興を支えてきたのは、庶民の大きな底力でした。大震災という転載と原発の暴走という人災の影が濃い事故という厳しい挑戦に勇敢な対して、新時代を築いていくことを世界の皆さんに誓っていきたいと思います。海辺の廃墟に、新しき町を築こう・・・そんな想いは、ベトナムの人びとの逞しさからも勇気づけられます。
お見舞いのお電話をありがとうございました。
この夏、また一層庶民対話を楽しみたいと思います。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 since1990
<このブログの無断転載・複製を固く禁じます>

Saturday, October 21, 2006

其の54 学生も楽ではない

(この記事は、2006年10月6日付けのシドニー週刊紙ジェンタに掲載したものです)
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このインフレの中で、大学生たちはどうやって暮らしているのだろうか。

エンジニアリングとアーツと二つのディグリーを狙っている、シドニーユニ2年の女子大生。中国系の19歳だ。彼女は、シドニー西部の自宅からの通学だ。「自宅通学でない人は、出費がかかりかなり大変だと思います」という。

彼女の場合は、両親に週50ドルの食費を払う代わりに、車の登録料と保険は親が払ってくれる。教科書代など一時的な大きな出費がある時は、親から借りる。このセイフティネットは彼女にとって大きい。出費の主なものは、食事代週50ドル。ガソリンが月30ドル。これももう昨今のガソリンの値上がりで、パンク状態。トラベル・パスに月30ドル。携帯に月30ドルなどなど。

「毎週30時間も働いている友達がたくさんいるわ。みなセイフティネットをもっていない人たちよ」

彼女は、2週間に一回、180ドルのユース・アローワンスを受給している。アルバイトはピアノの先生。時給で30ドル~40ドル稼いでいるために、ユース・アローワンスは満額もらえない。「外食を抑えて、少しでも貯金に回すようにしています。隔週にある学部のバーベキューは、2ドルで食べられるから・・必ず行きます。でももっと貯めるようにするなら、もっと働かないとね」

メルボルン・ユニの21歳の女子大生。

親のすねをかじらず、自分で賄っている。部屋代、車のコスト、携帯電話、ジムの会費、それに食費、学費、交際費がついてくる。週平均10時間の企業の会計アルバイトで、この現状を切り抜けている。

彼女は、隔週に、部屋代の補助を含めて350ドルをもらう。
「アローワンスをもらうと、すぐ公共料金の支払いに充てます。それと、すべての領収書を保管していて、必要のない物を買わないようにしています」

彼女も外食をきわめて抑えている他、友人とのおしゃべりは、夕方8時以降深夜までの無料の時間帯に通話する。そして、公共輸送機関の利用を出来るだけ多くして、交通費も抑える。自転車や歩きで大学に行く時も多い。

「ガソリンと八百屋はついついクレジットカードですませてしまいますが、出来るだけ現金で払うようにしています。交際費の捻出はむずかしい。へたをすると週50ドルから100ドルはかかってしまう。お金がないからつきあえないと言い続けると、友達を失ってしまうし・・」と彼女は言う。どこまでつきあうか、これも智恵を絞るしかない。

明治33年12月、野口英世を乗せた亜米利加丸が横浜港を出港した。サンフランシスコに到着したのが12月22日。さらに、ワシントンまで大陸鉄道で四日半。フィラデルフィアに着いた時、野口のポケットには23ドルしか残っていなかった。(福島民報社のサイトから)

裕福、必ずしも学成り難し。苦学こそ立派な人格を磨く足がかりになることが多い。学生さんの経済闘争に声援を送りたい。(了)

Friday, October 20, 2006

其の53 尊敬する韓国人壮年 張 勝雨さん

(この記事は、2006年9月29日発行のシドニー発行の週刊ジェンタ紙の記事に修正加筆したものです)

1976年10月5日、雨のシドニー空港に、若干の荷物と百ドル札を持って降り立った一人の韓国人中年男性がいた。名前を張勝雨(チャン・サンウ)さんという。シドニー空港からタクシーでYMCAホテルへ。

運転手になけなしの100ドル札を渡す。だが、運転手は一向に戻ってこない。「失敗した」と、彼は思った。30分ほどして、運転手が釣りを持って戻ってきた。張さんは、「この国は信用できる、と思った」と言う。

Posted by Picasa彼は、1936年にソウルの裕福な家庭の一人っ子として生まれた。子どもの時、どうしても忘れることの出来ない、日本植民地時代の創始改名を経験した。創始改名とは、1939年(昭和14年)に公布され、1940年に実施されたもので、陸軍志願兵制度、第三次朝鮮教育令、創始改名の3つは、「皇民化政策」(天皇のためにすべてを尽くす朝鮮人をつくりあげる為の政策)の3本柱の1つだった。

「張 勝雨」さんは「張山岩男」にさせられた。国民学校では、日本語しか許されなかった。なぜ、自分の本当の名前が使えないのか? 韓国語を話すと、先生から「こっちにこい」と呼ばれて、足を棒で打たれた。「こら」と「こっちにこい」という日本語の発音は、いまでも張さんは筋金入りだ。

やがて、父親の会社の倒産で、一家の生活は突如奈落の底へ。苦労して大学で物理学を専攻し、ロッテに勤めた。しかし、40歳の時、会社からクビを言い渡された。日本語が話せない人は不要になったのだ。3人の幼い子どもがいた。

再び日本語で苦労するのなら・・と、高校時代に勉強した若い国オーストラリアへの移住を決意した。なけなしの二百米ドルをもって、まず日本へ。

何人もの日本人に激励されて、シドニーへ向かった。それが、冒頭に書いた1976年10月5日、雨のシドニー空港だった。

手持ちのカネが50ドルになった時、一人の韓国人が、食事付きで泊めてくれ、別の韓国人が部品工場の仕事を斡旋してくれた。初の給料日に手にしたのは、週休113ドル。「それはもう、大金でした」と。20数ドルをとって部屋を借り、残りは本国で必死になって家族を支える妻に送金した。

次に、永住ビザを取りなさいと、友人がカネを貸してくれた。1979年12月、家族を呼ぶ許可が出た。張さんは来豪三年で、家族を呼び寄せた。生活のために、張さんは一人で三つの仕事をした。アパートの掃除の仕事を終え、2箇所の工場勤務をこなした。1日13時間労働で、睡眠5時間をやり抜いた。
妻のヨン・ジャさんも靴工場へ働きに出た。

多くの友人の激励を受けながら、10年後には家も買えた。

1993年には、ブッシュファイアが200メートル先まで。消防署の避難勧告もなんのその。「俺の家は守り抜く」と屋根でホースから水を撒いた。

シドニー空港に百ドル札一枚で降りた張さん。長男は、中国駐在を終えて中国人美人と結婚し、シドニーで日本食レストランを開業。長女と次女は地域で活躍。

張さん夫婦は、大成してなお、韓国人社会にも尽くしている立派なご夫妻である。こうありたいと思う人である。(了)

Thursday, October 19, 2006

其の52 我が家に来た”韓流”とは

(この記事は、2006年9月22日付けシドニー発行の週刊ジェンタ紙に掲載した記事に加筆修正したものです。) 
多くの韓国人が、北朝鮮の核実験は米国の責任が大きいと考えていることが分かった。KBSラジオ第1放送の時事番組が11日から2日間にわたり、全国の19歳以上の男女500人を対象に実施した電話アンケートで明らかになった。 

それによると、責任が大きい国として「米国」を挙げたのは43.4%となり、次いで「北朝鮮」が37.2%、「韓国」が13.9%、「中国」が2.4%、「日本」が1.0%だった。 これは、連合通信が伝えたものだ。

でも、よく考えてみようぜ。日本の責任が1%もあると考えている事実を。これは何だ、拉致のせいか。拉致もこちらが引き起こしたものではなく、あちら様がやった犯罪だ。北朝鮮よりアメリカの責任の方がおおきい、と。少しおかしくないかぇ。

 ところで、人生20数回目の引っ越しを、昨年体験した。今回は初めて韓国の業者にお願いしたのだが、韓国の人は荒っぽいよ、という友人の注意が最後までひかかった。

 下見の日、いきなりばりばりと音がした。下見の日なのに大型トラックでやってきて、門の近くの木の枝を勢いよく数本へし折った。にもかかわらず、平然とまだバックの誘導をしている。数本の枝を折ったくらいでは謝らないのがこの國の方の原則(1)なのか。

 引っ越し当日、韓国の人は黙々と働いた。これには感心した。日本の引っ越し業者と違うのは、韓国業者は、段ボール箱はほとんど使わず、大きなプラスチックの箱や籠に入れて、陶器と陶器の間にクッションを使い、居抜きで運ぶのだ。ウエッジウッドの皿などを裸で箱に押し込むのを見るたびに、冷や汗が出る。基本的には、出来るだけ現状のまま運ぶ・・というのが原則(2)と感じた。

 「スーパーでもらうビニール袋をくれ」という。それを陶器のクッションにしようというのだ。基本的には、自前で用意したものが足りなくなると、客に提供させる・・というのが、原則(3)とみた。

 そして、私のキャビネットの引き出しから勝手に固い厚紙をみつけては、それを机や家具の引き出しなどの蓋にしてしまうのだ。それも断りもなく。私は、自分で撮った写真を人に送るので、そういう厚紙を購入してある。

 「昼食をとります」と言いに来た。彼らは、我が家の前庭で、サンドイッチを摂ってたったの15分で終わりだった。実に働き者なのだ。

 さて、新居に着いて壊れ物がみつかった。心配していた食器類に破損はなかったが、大事に使っていた電気スタンドの棒が折れていた。下見の日、「壊れても保険に入っているから・・」と言った若社長に、「この破損を保険でカバーしてほしい」と頼んだ。すると、彼はいきなりセロテープで折れた部分を巻き始めた。これをみて、保険の加入は嘘だと思った。嘘をつくのも原則(4)だと思った。若社長は、未だに修理の約束を反故にしたままだ。

  引っ越し料の支払いでは、下見の時に言ったことを覆し、小切手を断り、やけに現金での受け取りにこだわったうえ、若社長は領収書の発行をためらった。私は、脱税を目論むのが原則(5)とみた。しっかり、領収書は頂いた。

新居では、すべての物を然るべき所にきちんと収めて、ほとんど残さずにリサイクル用の箱を持って帰った。見事だった。韓国の学生さんのバイトの人のまじめさにも、好感をもった。が、若社長の態度は残念だった。

Posted by Picasa そして・・・新築の新居で水漏れがみつかった。やって来たのは施工業者の韓国人。工具一つだけもって。漏れる水を拭くのに、我が家のティッシュー・ペーパーを惜しげもなく無断で使い尽くした上、「もっとないか」と言った。やはり、この國の方は、修理に使うものでも仕事先で調達するのだ、と思った。それでなければ、ドライバー1本ではなかなか来られない。日本では“韓流”ブームだが、我が家に来た“韓流”は頂けなかった。

ベ・ヨンジュ様。イ・ビョンホン様。
こういう韓国の方を、あなた方若い方は、どうお考えになりますか?

Wednesday, October 18, 2006

其の51 ロリキートが問いかけているもの

(この記事は、2006年9月15日に、シドニー週刊紙ジェンタに掲載された記事です)
Posted by Picasa
このオーストラリアに来てうれしく思うのは、鳥の鳴き声で目が覚め、秋は落ち葉を踏みしめながらウォーキングが楽しめる・・・日本で住んでいたことを考えると、私には相当の贅沢に思えるのだ。今も、我が家にはほぼ毎朝カワセミはやってくるし、隣家がブッシュを刈り取ってしまったために、ロリキートは我が家にくるようになった。

ところが、最近サザランド・シャイアのある地区では、住民40人が、ロリキートの鳴き声が朝夕うるさくて、合法的に鳥を取り除く請願書を提出したと、デイリー・テレグラフ紙が報じた。

そして、どうやらその地区では、野鳥保護派と退治派に分裂しているのだ。鳥が来る木に毒がぬられているという恐ろしい話も伝わった。役所側は、住民が鳥に餌を与えないようにする以外に、自然の鳥には何も出来ないし、何もしないと語る。役所とワイルド・ライフ・サービスは、懐中電灯と音の発信器の購入をして撃退することを住民に提案した。平和的な手段と言える。

住民の一人は、「鳥がやってくる木に毒物を使用する手がある。自分なら同じ事をする気持ちになる」と。別の住人は、「ライフル銃で撃つか一匹ずつ捕獲する以外に選択肢はほとんどない」と言う。

反対派も主張する。「そんなことをしたら、自然から閉ざされた地域になってしまう。騒音の苦情は全住民の声ではない」「毎晩、孫たちとロリキートたちを見るのが楽しみで・・」「シティにこんな近い所で鳥に囲まれているのは幸せだ。鳥にも住む権利がある」「鳥の騒音は夕方だけに限られている。住民の睡眠を妨げるものではない」

そもそも、ロリキートのあだ名は、“スクリーマー”といい、静かな鳥ではないのである。確かに、シャープで切り裂くように鳴く。そして短い間隔で集団で鳴く。この鳥は日の出後と日没直前が、最高にトーンが高い。2~30羽で群れている。と鳥の側に立てば、お目覚めの時刻と帰宅のお知らせなのである。

ロリキートは餌を求めて50キロも飛ぶという。そして、お気に入りの木にねぐらを求めて戻ってくる。自然の鳥に、毒物をやることは絶対に避けたい。住民のエゴである。

もっと興味あることは、ロリキートは、日常の騒音のまねがうまいのである。例えば、電話の音、ポケベル、蛇口から出る水の音、自動車のクラクション、パトカーのサイレン、引き出しのキューという音、ビデオゲームから出る音、そして、人間の声も。ロリキートはオウムの種類である。その声は、「オーム返し」と心得るべきだ。人間が自然の中で静かに暮らしたいと思うなら、人間自身がもっと静かに暮らすことを、この鳥の騒音が教えているのではないか。

「パブから大声で戻ってくる馬鹿どもの方が、鳥より遙かにうるさいぜ!」と言うある住民の一言に、ロリキートはどう反応するか。「あんた、やはりそう思うだろう」と。

Saturday, September 16, 2006

其の50 歩けよ走れよ

(この記事は、2006年9月8日付けの週刊ジェンタに掲載したものに加筆したものです)

 オーストラリア人は、どこでも歩き、そして走る。昼食時間帯、背広から着替えて、汗びっしょりで走るサラリーマン。オフィスの中にシャワー室を設けることが、社員の福利厚生施設になるとも聞いたし、チフリー・タワーにあった私の現役時代の支局の隣の職場には、4人分のシャワー室が設備されていた。

 シドニー五輪マラソンの覇者「ナオコ」は今でも人気者だ。 「歩く者」「走る者」は、仲間として尊敬されるのだろう。

 パトちゃんに勤務されている知りあいの末広守さんは、毎日通勤に5キロをウォーク。土日は、最初の3キロを走り、後は歩きで合計10キロ。この4年弱で2足3文ならぬ2足半の靴をつぶした。通勤費で浮いたカネは靴に消えるのだ。

 「ウォーク」には、いろいろなネーミングがある。フィットネス・ウォークス、ブッシュ・ウォークス、レジャーウォークス、犬同伴ウォークス、案内付きガーデンウォークスなどなど。毎年恒例のシドニー北部からボンダイ・ビーチまでのシティ・トゥ・サーフマラソン。今年で18年目だったか。今や、女性の参加者も四十九%と裾野を広げ、参加者六万を超える世界有数の市民マラソンに成長した。

 昨今の醜い肥満を考えると、カロリーの消費は結構なことだが、困ったことに太った人はあまりこういうイベントに参加しないのだ。むしろ、コーラの瓶とチップスをもって、眺めている。肥満者が気軽に参加できる”WAR ON FAT ”ウォークなどを企画する人はいないのか。

 ハワード首相は、行く先々で歩く。ある年、東京・赤坂の迎賓館に滞在中の3日間、毎朝六時から三十分間ウォークした。ハワード首相が迎賓館に滞在中にたまたま担当だった私の友人の帝国ホテルのホテルマン山本博さんが首相に同行した。「首相は速歩でしたね」と、彼は言った。山本さんは、平気で30キロを走れるくらい鍛えている方なのだ。そして、ハワード首相の速歩は、「健康・オーストラリア」の輸出である。

  Posted by Picasa イギリスの若き自然学者チャールズ・ダーウィンが、世界一周の途中、ビーグル号でシドニーに着いたのは1836年1月12日だった。

 ダーウィンは、シドニーで、ガイドと馬を借り上げ、内陸まで旅をした。ブルーマウンテンを越えながら、ある滝の所で止まった。ダーウィンは、その渓谷を「下は大きな入り海か湾か。部厚い樹林に覆われて、それ以外の表現を私は思い出せない」と書いている。その道にチャールズ・ダーウィン・ウォークという名前がつけられた。(写真は、ウェントワース・フォールに近い所だ)ダーウィンがブッシュ・ウォークをして170周年の今年は、滝までのガイド付きの記念ウォークが毎日曜に行われている。

 オーストラリア・オックスファム主催の世界の貧困撲滅のためのウォークは、今年で40年目。「あなたの一歩が、世界の貧困を助ける」自他共の幸せを目指して、さあ歩こう。互助精神は、オーストラリアの文化である。

Monday, September 11, 2006

其の49 シドニーの幽霊(2)

(この記事は、2006年9月1日付けの週刊ジェンタに掲載した記事です)

ボークルーズの地名は、ボークルーズハウスからきている。勢の限りを尽くした一風変わった魅力をもつ邸宅から来ている。

1827年から1862年まで、このゴシック調の邸宅は、有名な探検家ウィリアム・C・ウェントワースと、その妻サラーら大家族の邸宅だった。この邸宅には、ウェントワースら家族の他、囚人、自由人等の今風にいうお手伝いさんが住み働いた。その中に、アイルランドの囚人準男爵がいた。彼はアイルランドから152トンの土壌を輸入した。そして、家の周辺の掘りに敷いた。ヘビと英国税関管理事務所長のキャプテン・ジョン・パイパー、そしてオーストラリア憲法の父ウィリアム・C・ウェントワースから守るためだった。

 著名な系譜、長い歴史をもつ家に固有の幽霊がでるのは、むしろ当然である。しかし、それは、この家に精神が染みついているこれら有名人のものではない。 その幽霊とは、この邸宅の最初の所有者、キャプテン、トーマス・デネットのものと思われる。このトーマス・デネットは、現在の邸宅が建築されるだいぶ前の1803年に亡くなった。

 この幽霊のお気に入りの出没場所は、前側の客室である。オーストラリアで最も素晴らしいビクトリア朝の部屋とされているところだが、これには少々議論の余地がある。
 
Posted by Picasa過ぎ去りし日には、住人たちがこの部屋の湾側の窓で休もうとして、芝生や花壇をじっと見ていると、彼らの腕、肩や喉が突如冷えた指でぐいと掴まれるのである。悲鳴が静寂な雰囲気を引き裂いた。男性は武器を探し、女性は臭い付きの塩を探し回った。大混乱が展開されている間、子どもは泣き、召使いは隠れた。


もし、今日でも明日でもボークルーズ・ハウスを訪れるな
ら、幽霊に出現に翻弄されることなく、この邸宅を覆うのどかな雰囲気を満喫できる。その幽霊は長い間見られていない。そして、もし幽霊について質問するなら、館長は、ボークルーズの幽霊についてはいかなる話しも知りませんというだろう。

 ここから少し先にあるワトソンズ・ベイのザ・ギャップ(左の写真)にも、幽霊の話がある。サウス・ヘッドの国立公園、特にザ・ギャップは、言わずと知れた自殺の名所。これまで、ここで命を絶った人は何人くらいいるのか、百人単位なのか。身投げした多くの者の幽霊がここで報告されている。

かつては、取り壊した家の基礎が捨てられていたり、壊れた硝子が散乱し、岩肌をちょこちょこ走るトカゲがいたり、虫の一団が群れ飛んだり、誰が見てもあまり気分がいいとは言えない風景の時代があった。昼間ですら、岩の間に怪奇の姿を見た人がいるという。

1959年9月22日、ニュージーランドの旅行者が、ザ・ギャップの写真を撮った。そこには人がいなかったのだが、現像してみると、ネガにはクリフの端に特定できない人物が立っているのが写っていたという。まさに、その人物は身投げしようとしているところであった。(了)

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